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「新しい日本に~龍馬の心」から「国って何?」 [道徳]

社会科でもちょうど幕末から明治が終わったところ。
NHKの大河ドラマ「龍馬伝」も佳境に入ってきた。
丁度いいので、「新しい日本に~龍馬の心」を読んでみた。

ぼくの発問は、
『薩摩と長州を結び付けようとした龍馬は一体どんな思いだったのだろう』
だけを準備。

子どもたちは、
「日本の中で争っているうちに外国に好きなようにされてしまう」
「早くしないと外国に乗っ取られる」
「国を守りたいという一心」
などと話した。

そこできこえてきたのは「国ってなんけ」というつぶやき。
おもしろそうだったのでそれに乗っかって、
『国ってなんだろう』
と、みんなで考えてみた。

出てきたのは、
「土地」
「人」
「まとまり」
「何のまとまり?」
「村がまとまって国になった」

そうそう、社会科でそう習った。
『では、村にあるものは?』
「田畑」「建物」「神社」「家族」「祭り」・・・
「そういうものを守るために村が大きくなっていった」

なるほど、では最後の質問。
『国って何のためにあるの?』
連絡帳に自分の考えを書いてからグループで話し合う。

「同じ考えの人で集まって平和に暮らすため」
「近くに住んでる似たような民族でまとまってみんなを守るため」
「似た考えの人が協力して暮らしをより良くするため」
そこで時間切れ。

ある子が、
「先生は答え知ってるの?」
『そんなもの大人だってわかりはしません。お父さん、お母さんだって多分考えたことないんじゃないかな?』

というわけで、今日の宿題は「国って何のためにあるの?」に決定。
家で話し合って、明日交流することになりました。
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特別活動から道徳へ関連させた例 [道徳]

運動会や市民体育大会などの行事を6年生の子どもたちは一致団結して乗り越えてきた。
その高まった思いをより確かなものにしたいと考え、「言葉のおくりもの」の授業を行なった。

クラスの男子は無邪気で子どもらしい子が多く、一郎よりもたかしタイプが多い。
普通は主人公の一郎で授業するところだろうが、物語の後半でからかったことを反省し、一郎と和解するたかしを中心に追うことにした。
対して、女子は正論を話し、有言実行のしっかりした子が多い。すみ子タイプ。
教材の雰囲気とクラスの雰囲気がよく似ているのもぴったりの教材だ。

さて、用意した発問と子どもたちの反応は次のようになった。
1.一郎とすみ子の仲がいいことをはやし立てた「たかし」はどんなことを考えていたのだろう。
 ・おもしろいことが起こったぞ  ・あやしいぞ  ・からかってやれ        ・うらやましいな
2.一郎とすみ子が口をきかなくなってしまったことを知って、たかしはどう思っただろう。
 ・ざまぁ見ろ  ・悪いことをしたかな  ・あんなことしなければ良かった
3.すみ子に励まされたたかしはどんなことを考えていただろう。
 ・一郎にからかわれないだろうか ・ぼくのせいで負けたのにやさしいな
 ・からかったことは気にしていないのかな
4.たかしが一郎と握手できたのはなぜだろう。
 ・反省したから ・すみ子の言葉のおくりものにそのとおりだと思ったから。
 ・みんなの拍手で、みんながすみ子と同じ気持ちだったことに気付いたから。
 ・自分もクラスをもとの楽しいクラスに戻す手伝いをしたいと思ったから。

1は深刻に考えずに軽い気持ちでやってしまったことを押さえるための発問。
2は軽い気持ちでやったことで二人が溝を作ってしまった気まずさに気付かせるため。
3はたかしが葛藤し始めたことに気付かせる発問。
4はたかしの道徳的な変化を感じさせるための発問だ。

横山利弘教授(2009)によると道徳の資料には、1)登場人物が道徳的に変化する資料 2)登場人物の全員が最初からすばらしい人ばかりで道徳的な変化がなく、みんなの力で道徳的な場が作られる資料 3)文学的で感動的な資料の3種類があるとされる。

1)は登場人物の変化する心を読めばよく、2)はどうして道徳的な場ができたのかを読み、その心地よさを感じさせる。3)は思い切り資料に浸らせるのがよい。

この資料は1)の部類に入るが、最後の言葉のおくりものの部分は2)に近いと考えた。
そこで発問1~4でたかしの変容を読み、そのあと、どうして拍手に包まれ、みんなが握手し合うような温かい場が作られたのかを考えることにした。

1~3は大体予想通り進んだが、4の発問に真っ先に応えたのは、3月に中国から転向してきた児童だった。外国人児童指導員の先生の通訳で、話の中身を理解した彼は、「たかしはすみ子の話を聞いて自分が間違っていたことに気付いた」と発言した。初めて自分から手を上げて発言したことに、クラスの全員が感動し、大きな拍手に包まれた。
まさに、資料の世界が教室と重なった瞬間だった。

終末では、市民体育大会の陸上で大きな会場、たくさんの観客に圧倒されたが、同じ学校の仲間と声援を送るうちに頼もしさと一体感を感じたS児と、同じく相撲で大将になり、全勝している他校の大将と当たった際、仲間の声援で力が出せたと書いたD児の日記を紹介して終わった。

授業後の感想をW児は中国語で書いていたが、なんと書いたのか聞くと「一緒!一緒!」と話してくれた。放課後保護者に電話で内容を尋ねると「中国では忙しすぎて、宿題が分からない人に付き合うような子どもはいなかった。日本では授業中もみんなが教えてくれる。一緒にやろうと言ってくれる。日本の友達は優しい。」と言うような内容が書いてあると言う。

彼も資料の世界と学級の雰囲気の重なりを感じていたのではないだろうか。
道徳の授業では、資料と教室の実態を重ねるような発問はしない。
それは、実生活とかかわらせることで子どもたちが自由に心の問題を考えるチャンスを失うことを防ぐためだ。

しかし、子どもたちは資料を読むとき、自分の生活や思いから想像して話している。
実生活での達成感や一体感を感じているとき、それを資料と重ねて読めるように資料を選ぶことは子どもたちの道徳的実践力を高めるために有効なのではないかと感じた1時間だった。

道徳と特別活動の関連 [道徳]

たまには道徳の話題でも。
昨年の10月から12月いっぱいまで、関西学院大学の横山利弘教授の下で内地留学をさせていただきました。
これまで特別活動一本やりだった私は、「道徳と特別活動を関連させて指導すればいい感じになるのでは?」などと簡単に考えていたのですが、道徳のことを勉強すれば勉強するほど、安易な関連付けは逆効果になるということが分かりました。

考えてみてください。
1.道徳→特別活動の場合
運動会の前に「小さい子がくれた幸せ」とか、水泳の授業が始まる前に「男女関係なく仲良く」とか、やったりしたらあまりにも見え見えでうんざりするでしょ。
教師の言いたいことが透けて見えると子どもたちは本音で語らなくなってしまいます。

2.特別活動→道徳
でも逆に、行事を協力してできた後に、「分け隔てなく協力する」なら大丈夫。
子どもたちの中に語るべきことができた後ならいい感じで授業できそうです。
失敗した後はしんどいかもしれませんね。

道徳の授業では、子どもたちが登場人物の心理を読もうとする中で、自分自身を語っていくことが大事だと思っています。
直接、自分の身の回りにある問題を取り扱うのは特別活動。
道徳はあくまで資料を通して語り合い、道徳的心情や判断力、知識を身に付けることに集中するべきです。

即効性を求めるのではなく、授業で培われた道徳性がその子の人生のどこかで出てくることを願って授業を行います。

強制された変容には意味がなく、その子自身が「なりたい自分になる力」を発揮して、変わることにこそ意味があるからです。

そうすると、生活のあり方について直接的に指導する特別活動は「やらせ」なのか?
という疑問が沸いてきますが、ぼくは決してそうではないと思います。
ただ、やり方にはポイントがあります。
そのことについてはまた後日と言うことで。

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