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規範意識を再構築する道徳の時間~横山利弘教授と話して~ [道徳]

昨日は横山利弘関西学院大学大学院教授をお迎えして道徳の勉強会を開催した。大学院で3ヶ月間お世話になったぼくの教師としての心の父親のような方だ。久しぶりに横山教授とお話しして、考えるところがあったので記録しておく。

1.横山先生の話から~子どもの規範意識は低下したか?~
先生は「教師は子どもの規範意識が低くなったというが、それは子どもの問題ではなく、社会の問題だ」と言う。子どもの規範意識がなくなったとすれば、それは親が規範に関してしつけをしなくなったからだ。そもそも、今の日本において、共通の規範は存在しているだろうか?

一つの問題について善悪をどう判断するか。「何が普通であるか」を規定するもの。
それが規範であるが、「現代においてその判定基準は『私』になっている」と先生は指摘する。かつては「神仏」「掟」のような規範が厳格に存在し、それに従っていればよかった。

しかし、個人の自由が追求される現代社会において、そのような外部的な規範は顧みられることがなくなり、一人一人の個人が自分の内部にある判断基準によって善悪を判定するようになっている。そのために「誰もが当然のようによい」と認める基準になるモラルが消失してしまったのだ。

2.規範を再構築する~今求められる道徳の時間の役割~
「失われてしまった規範をもう一度構築しなければならない。子どもたちの間に共通の規範をつくるのが道徳の時間の役割だ」と先生は言う。資料を通して子どもたちがよりよい生き方について考え、ボトムアップ的に共通の規範を作り上げていく。それが道徳の時間の役割になる。

子どもたち自身が「どう生きることがより美しいか」を考えるのが道徳の時間である。無くなってしまったのなら、新しい世代の中に新たに構築していかなければならない。これからの世代の心の中に、新しい時代を生き抜くための「規範」をつくる。

そして、その規範は我々古い世代が押しつけてしまってはいけない。子どもたち同士が考え合うことでそれを作り上げていく。・・・そうすることで、「自分たちが正しいと思う生き方に近づこう」という意識を高めることができる。それが規範意識である。

それでは、子どもたちの中に本当に規範意識は消えてしまったのだろうか?ぼくはそうは思わない。
表面上は規範に従っていない子どもでも、本当の正しさは心の中で感じているものだ。
そして、子どもたちは「自分でも本当は正しいと感じていない」ことを行ってしまうことでより深く傷ついている。
それはある子どもの姿からはっきりと感じられ、ずっとぼくの心の中に刻み込まれている。
かつて担任した子どもとの対話の記憶だ。

3.ある子どもとの対話~心の正しさと行動のギャップ~
彼は生まれたときから両親のいがみ合う姿を見て育ち、父親のDVで離婚した母親と2人で暮らしていた。ちょっとしたことですぐかっとなり、普通では考えられないような暴力行為に走るので毎日のように指導しなければならなかった。ぼくはそれを父のDVの影響だと思っていた。

ある日、そんな彼の母から電話で相談があった。母親に対して暴力行為を行っていると言うのだ。別のけんかの指導のあと、ぼくは彼だけを別室に連れだし、家庭での暴力について尋ねた。すると、意外にもあっさりと大したことでもないように認め、母親の訴えと同じ内容を話し出した。

彼に事実を聞いた後、ぼくはまっすぐに目を見つめて一言「君はそれで幸せか?」と尋ねた。口の端に笑みさえ浮かべながら話していた彼が、急に黙り込んだかと思うと、その目からポロポロと涙が流れた。いつまでも流れ続けた。

人を傷つけて幸せになる人間なんていない。彼だって心の奥では「よくないことだ」と当然感じていたのだ。人は自分の心をだますことはできない。心の中に明確な規範をもち、それを守ることが心の平穏につながる。自分の心の規範を守ることは幸せになることにつながっている。

彼はその後、家庭での暴力をぱったりとやめた。
母親との関係がよくなると、まずノートの字がきれいになり、宿題をきちんと提出するようになった。友達とのトラブルでも安易に暴力をふるうことはなくなり、トラブル自体も激減した。

4.子どもたちを幸せにする規範意識
 「本当に正しいと感じることを実行する」それが彼を幸せににしたのではないだろうか。

ぼくは教師の仕事は子どもたちに「幸せに生きる方法」を教えることだと信じてきた。
そして今、「幸せに生きる」ための一番の近道は、自分の心の中に規範をもち、それに従ってよりよく生きることだと思っている。

子どもたちがそれぞれ胸に秘めている規範意識は、話し合いの中で表出され、受け入れられることでより一層確かなのものなっていくだろう。子どもたちの幸せのため、これからもよりよく生きる方法について考えを深める道徳の時間を大切にしていきたいと思っている。
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子どもたち同士が対話し、「道徳的な価値の自覚」を深めていく授業を目指して~教師はどのような聞き方、話し方をしているか~ [道徳]

対話には相手に「どう思われるか」という自己防衛を越えた自己開示が必要です。だから教師は子どもたちと信頼関係を結ぶことが大切だし、子どもたち同士の信頼関係を広げながら同時に深めていくような姿勢を貫くことが求められます。
あなたのクラスの子どもたちは「授業中何を言っても受け入れてもらえる」と感じていますか?
そういった感覚が醸成されるかどうかは、まず教師がそのような聞き方、話し方をしているかどうかにかかっています。教師の在り方は子どもたちに伝わり、そして広がっていきます。もしあなたが「クラスの子どもたちが仲間の意見を聞かない」と感じているなら、まずは自分の聞き方を疑うべきではないでしょうか。
授業中、子どもたちは自分たちの意見がどこまで聞いてもらえるのか測りながら話しています。道徳のようなオープンな発問中心で構成される授業では、子どもたちの経験が少ない場合、「何を答えればいいのか」という不安が高まり、「話し出す勇気がもてない」という状況が生まれてきます。
そこで、ぼくは道徳の授業では特に、どのような意見でも認め、取り上げるようにしています。一見、取り上げる価値の無いような(たとえ、ふざけているような)発言でも、「〇〇君の意見についてみんなはどう思う?」と返すことで、子どもたちの考えが深まっていくきっかけになります。また、「え?」と思うような意見を認めることで、「何を話せばいいのか」という不安を取り除き、子どもたちの発話へのハードルを一気に低くすることができます。
道徳的でないような発言も全体に返すことでそれに反対する考えや、その子がどうしてそう考えるかを推し量ろうとする発言が生まれてくるものです。そのとき、教師は価値判断をするのではなく、子どもたちが考え合うような環境を作ることに徹すればいいのです。
そういう経験を積み重ねていけば、子どもたち自身がお互いの考えを認め合い、互いの発言の奥にある価値について深めようとする雰囲気をつくることができます。実際ぼくの経験上、道徳的ではないような発言に関心を示すと、子どもたちはそこからより一層意欲的に意見を交換するようになると感じています。
道徳の授業に正解はありません。教師が子どもたちの発言を教師の価値観で「表面的に」評価するようなことはできるだけ避けなければならないと思っています。
教師は資料を読み込んでその時間で深めたい価値に近づくための発問を用意したら、授業の中では子どもたちの自由な発想のひとつひとつに驚き、その奥にあるものに興味をもって進めればいいのです。道徳の時間における「いい授業」とは、資料をもとに子どもたちが考え合うことを通して、一人一人が「自己の生き方に対する自覚」を深める授業だと思います。
道徳的に正しい、見た目美しい発言ばかりが繰り返され、子どもたちが自分自身をふり返らないような授業を繰り返せば、その分学級の闇は深くなります。よい資料と適切な発問で構成される授業では子どもたち自身が道徳的な価値への自覚を深めていきます。そうすれば「自分の進めたい方向に引っ張る」ことはしなくてもよくなるのです。
子どもたちを対話に導くことを目指して、日々の全ての授業に取り組んでいきたいと思っています。

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清らかな心を保とうとする心を育む「青の洞門」 子どもたちが問いを立てる授業の実験 [道徳]

「青の洞門」を読んだ。

板書を見ればわかるが、ぼくの授業では必ず最初に登場人物を確認して話の筋を押さえる。
これは答えの決まっている質問をすることで子どもたちに安心して答えられる雰囲気にすることを目的としている。
毎回、ちょっとはずれたような意見が出てくるが、それも認めて軽く笑いが出るぐらいがいいと感じている。
こんな風にワイワイガヤガヤと道徳の授業をやり始めてから1年がたった。

子どもたちもだいたい授業の流れもわかってきているので、ぼくの範読の後、今回は子どもたちから中心発問を募ってみた。横山先生には叱られそうだが、クラス全体の話し合いでは深められるようになってきた。そんな子どもたちが自分で問いを立てられるようになれば、どんな文章からでも、いや、もしかしたらどんな体験からも道徳的な学びを得ることができるのではないかと考えたからである。

「今日はみんなで何を話し合いたいか決めてみよっか!」
というといくつかの問いが出てきた。

・実之助がやっと了海を見つけた時、どう思っただろう。
・夜忍び込んだとき、どうして殺せなかったか。
○手を取ったとき、どんなことを思ったのだろうか。

子どもたちはちゃんと道徳上の問題が起きたところを問題として取り上げている。
すごい。正直すごいと思った。少なくともぼくのレベルは超えている。
一番最後の場面を中心発問にして順番に話し合っていくことにした。
話し合いの流れは板書を見てもらえばだいたいわかると思う。
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途中、了海を殺さなかったのは「めんどくさいから」という発言がある。
ぼくはズレた発言でもそのまま受け入れる。
そうすると子どもたちはズレを戻そうとするかのように活発に発言をする。
ぼくは子どもたちの授業をつくる力を信じている。

中心発問では、
・二人で一緒に途方もない仕事をやり抜いたという感動と共感
・了海はすでに21年も村人たちのために働き続け、罪を償っている
・人を殺すということは、了海のように一生背負っていかなければならないこと
・了海のようになりたくないと思っている
など、活発に意見が交わされたが、
・父は殺してほしいとは思っていない
から、死んだ父の実之助の幸せを願う気持ちにまで考えを進める子どもたちの姿に感動した。

ぼくのような下手くそでも毎週1時間の道徳の時間をきちんと行うこと。
それができれば、子どもたちは自分たちでも問いを立てて、学びを得ることができるようになるのだと確信した。
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