失敗から学ぶ強さを育てたい~「やり直せる」という希望を子どもたち一人一人の心の中に灯すために~ #教育 [学級経営]
「受けもちの子どもたちがトラブルを起こさず、平和に過ごしてくれさえすればいい」
多くの教師が今、こんなに委縮しているのは教師をサービス業と捉え「学校でのサービスが足りない」と勘違いしている保護者が増えたせいではないでしょうか。
教育は教える側とそれを受ける側に圧倒的な不均衡がなければ本来成り立たちません。
教える側に対する信頼がなければ、子どもはどう頑張ったって学ぶことはできないのです。
保護者がせめて子どもの前だけでも教師への信頼を示さなければ、子どもも教師に敬意を抱き、その教師から多くを学ぼうという意欲をかき立てることは難しいでしょう。
ぼくが嫌いな言葉に「お客様は神様です」という言葉があります。
教師がもしサービスする立場にある店員であったとしたら、神様であるお客様を教育することはまずできないだろうと思います。
ますます変化のスピードが加速していく現代において、子どもたちに一番つけさせたいと思っているのは「失敗から学ぶ」という姿勢です。
日本社会の中で「失敗したら終わり」「流れから外れたら終わり」というような雰囲気が漂い、若者から元気を奪っているように感じます。
…………
勤務校では毎週木曜日は掃除をやめ、40分間の長い昼休みにして子どもたちの交流を深める「なかよしタイム」を行っています。
先週は水曜日にうちの子どもたちが隣のクラスに「騎馬戦しよう!」と一緒に遊ぶ提案に行ってきました。
去年はクラス対抗の集会を継続的に行ったので、今年はクラス関係なく色団で楽しむことができました。
「クラス関係なく仲良くする」っていうのは実は意外と難しいものなんです。
大人だって職場が変わったりするとなんとなく疎遠になったりするでしょう?
クラス対抗という小集団を凝集させる活動を満足するまで行ったからこそ、自然に「クラス関係なく学年みんなでやろう」という発想が出てくるのです。
やはり集団にも発達段階のようなものが存在しているのでしょう。
学年での活動をしっかり行っていくと、今度は学校全体を俯瞰する見方が次第に育ってきます。
中学年で学級対抗をたっぷり行っていくことが、実は、高学年で必要とされる学校全体のリーダーとしての資質を育てる事につながっているのです。
中学年はギャングエイジ真っただ中です。
なので「クラス間での対抗意識を煽ることは問題を起こすもとになるのではないか」と教師は思ってしまいがちです。
しかし、問題が発生するのは子どもたちのテンションがピークにあるときです。
教師が把握している範囲でそれが起きてくれれば素早く適切な対処が期待できます。
問題が起きて、それを解決する。そういう過程を多く経験すればするほど、子どもたちは失敗を恐れずに活動することができるようになります。
教師の仕事は子どもたちを「問題なく過ごさせる」ことではなく、まず「問題が起きたときにどう解決するか」を学ばせ、次に「問題が起きないようにするためにどんな配慮が必要か」を予想し、その対策を考える習慣を付けさせることにあるとは思いませんか?
問題がなくて、成長もなければ、子どもたちはそこにいる意味があるでしょうか?
ただ、解決にあたっては、子どもたちが最終的に気持ちよく前向きに終われるように、問題についてきちんとした対応ができるように考えておかなければならないでしょう。
問題を起こした子が「次はがんばろう」と思えて、周りの子が「自分たちにもできることがあった」と思える解決の仕方です。
そのために教師は犯人捜しをするのではなく、まず「なぜ問題が起こったか」と原因を探らせ、そこから「次はどうすればいいか」と考えさせるようにする必要があります。
教師が失敗を糧にする姿勢を貫く。
そして問題を起こした子どもに徹底的に寄り添う。
そうすれば、「失敗してもやり直せる」という希望を子どもたち一人一人の心の中に灯すことができるのです。
多くの教師が今、こんなに委縮しているのは教師をサービス業と捉え「学校でのサービスが足りない」と勘違いしている保護者が増えたせいではないでしょうか。
教育は教える側とそれを受ける側に圧倒的な不均衡がなければ本来成り立たちません。
教える側に対する信頼がなければ、子どもはどう頑張ったって学ぶことはできないのです。
保護者がせめて子どもの前だけでも教師への信頼を示さなければ、子どもも教師に敬意を抱き、その教師から多くを学ぼうという意欲をかき立てることは難しいでしょう。
ぼくが嫌いな言葉に「お客様は神様です」という言葉があります。
教師がもしサービスする立場にある店員であったとしたら、神様であるお客様を教育することはまずできないだろうと思います。
ますます変化のスピードが加速していく現代において、子どもたちに一番つけさせたいと思っているのは「失敗から学ぶ」という姿勢です。
日本社会の中で「失敗したら終わり」「流れから外れたら終わり」というような雰囲気が漂い、若者から元気を奪っているように感じます。
…………
勤務校では毎週木曜日は掃除をやめ、40分間の長い昼休みにして子どもたちの交流を深める「なかよしタイム」を行っています。
先週は水曜日にうちの子どもたちが隣のクラスに「騎馬戦しよう!」と一緒に遊ぶ提案に行ってきました。
去年はクラス対抗の集会を継続的に行ったので、今年はクラス関係なく色団で楽しむことができました。
「クラス関係なく仲良くする」っていうのは実は意外と難しいものなんです。
大人だって職場が変わったりするとなんとなく疎遠になったりするでしょう?
クラス対抗という小集団を凝集させる活動を満足するまで行ったからこそ、自然に「クラス関係なく学年みんなでやろう」という発想が出てくるのです。
やはり集団にも発達段階のようなものが存在しているのでしょう。
学年での活動をしっかり行っていくと、今度は学校全体を俯瞰する見方が次第に育ってきます。
中学年で学級対抗をたっぷり行っていくことが、実は、高学年で必要とされる学校全体のリーダーとしての資質を育てる事につながっているのです。
中学年はギャングエイジ真っただ中です。
なので「クラス間での対抗意識を煽ることは問題を起こすもとになるのではないか」と教師は思ってしまいがちです。
しかし、問題が発生するのは子どもたちのテンションがピークにあるときです。
教師が把握している範囲でそれが起きてくれれば素早く適切な対処が期待できます。
問題が起きて、それを解決する。そういう過程を多く経験すればするほど、子どもたちは失敗を恐れずに活動することができるようになります。
教師の仕事は子どもたちを「問題なく過ごさせる」ことではなく、まず「問題が起きたときにどう解決するか」を学ばせ、次に「問題が起きないようにするためにどんな配慮が必要か」を予想し、その対策を考える習慣を付けさせることにあるとは思いませんか?
問題がなくて、成長もなければ、子どもたちはそこにいる意味があるでしょうか?
ただ、解決にあたっては、子どもたちが最終的に気持ちよく前向きに終われるように、問題についてきちんとした対応ができるように考えておかなければならないでしょう。
問題を起こした子が「次はがんばろう」と思えて、周りの子が「自分たちにもできることがあった」と思える解決の仕方です。
そのために教師は犯人捜しをするのではなく、まず「なぜ問題が起こったか」と原因を探らせ、そこから「次はどうすればいいか」と考えさせるようにする必要があります。
教師が失敗を糧にする姿勢を貫く。
そして問題を起こした子どもに徹底的に寄り添う。
そうすれば、「失敗してもやり直せる」という希望を子どもたち一人一人の心の中に灯すことができるのです。
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