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自由と責任~ドイツの教育に息づく、対話への教育を感じて~ [教育制度]

 川に面した広場で川に落ちる事故がある。ドイツでは「見通しのいいところでなんで落ちるの?」と言われるらしい。子どもが落ちたら「親は何してた?」。あくまで自己責任。日本ではそうはいかない。フェンスをたてない行政の責任などと矛先を向ける相手を探す。そしてフェンスだらけになる。
 のびのびと広い野原。自然のままの風景。自由と責任。大人の社会がドイツにはある。日本は過保護。甘えん坊のような気がしてきた。
 ただ、子育てに関しては家庭の責任が重んじられるので、女性が一時退職することが多いらしい。このあたりは問題であると認識され、2015年までに解消を目指して取り組みを進めているところだそうだ。

 自分で決められる範囲が広がれば広がるほど、人はその決定から生じる結果について責任を求められる。自由度の低いシステムは強制されることと引き換えに無責任であることを許容される。そして結果に関しては強制力を持つものに転嫁して愚痴っていればいいというわけだ。
 多くの日本人はこの仕組みに満足し、その慣習に従っている。
 ルールで縛られていることは煩わしく思えて、その反面、従っていればよいという安心感も与えてくれる。そうであるならば、あえて縛ることで危機から守ってやるという思いやりもあるのかもしれない。日本は思いやりに溢れた安心感の高い社会であるとも言える。そして、ある程度の場を平等に与えることで多くの者を確実に成長させる、育てる仕組みの整った社会であるのかもしれない。そんななかで人々は新しいアイデアを口にするよりも「そんなことは自明であるに違いない」と遠慮し、謹み深く黙っていることを好み、安心感と一方通行的な教育の成果を享受する。

 ドイツでは、思いついたことをとにかく言ってみて、出てきたアイデアについて話し合い吟味することで学んでいこうとすることが多いという。対話の教育だ。そして、評価は考えている内容ももちろん大事だが、話し合いへの参加の度合いが重視されるという。表出しない者はその考えも評価されにくい。
 積極的にアイデアを出すことはその集団の学びを豊かにすることに貢献することだ。そんな空気を作るためには、何をいっても受け入れられるという安心感と、自分の意見に対してどのような反論や懸念が出されてもそれは人格の否定ではないという大前提が広く受け入れられている必要がある。

 自由と強制の話からずれてしまったが、こう考えるとどのレベルの信頼関係を求めるかが一番大きな違いになるのかもしれない。考え合う仲間として互いに心を開き、自由に考えを試し合う。そのなかで話し合う内容に対する理解と、互いに対する理解を深めていくような授業を作っていく必要がある。

 2年前、O.F.ボルノー先生の著作に出会ってから目指し続けてきた教育が、今のドイツにきちんと息づいていることが確認できてうれしい体験だった。
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